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眠れる森の美女 (チャイコフスキー) : ミニ英和和英辞書
眠れる森の美女 (チャイコフスキー)[ねむれるもりのびじょ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [もり]
 【名詞】 1. forest 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 
美女 : [びじょ]
 【名詞】 1. beautiful woman 
: [じょ]
 【名詞】 1. woman 2. girl 3. daughter
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

眠れる森の美女 (チャイコフスキー) : ウィキペディア日本語版
眠れる森の美女 (チャイコフスキー)[ねむれるもりのびじょ]

眠れる森の美女』(ねむれるもりのびじょ、(原題): )はピョートル・チャイコフスキーの作曲したバレエ音楽作品66)、およびその音楽を用いたバレエ作品。クラシック・バレエ作品の最も有名なものの1つに数えられる。
ロシア語や英語の題は忠実に翻訳すれば『眠れる美女』であり、また日本語では『眠りの森の美女』とも訳される。台本はシャルル・ペローおとぎ話眠れる森の美女』(仏語:)に着想を得て書かれた。チャイコフスキーのバレエ音楽の中で最も演奏時間が長く、全曲を通した上演には普及している縮小版でも優に2時間を要し、原型に基づく上演の場合、上演時間は3時間に及ぶ。
== 作品の経緯 ==
サンクトペテルブルク帝室劇場総裁イワン・フセヴォロシスキーがチャイコフスキーに、ペローのおとぎ話『眠れる森の美女』に基づくバレエの音楽が欲しい、と手紙を書いたのは1888年5月13日ユリウス暦。新暦では5月25日)のことだった。それまでチャイコフスキーのバレエ音楽の作曲の経験は『白鳥の湖』だけであり、しかもライジンガーやハンセンが振付けてモスクワのボリショイ劇場で初演したバレエ『白鳥の湖』は、当時ほとんど歓迎されることのない作品となっていた。その後8月22日にやっと台本を手にしたチャイコフスキーは、ためらうことなく新作バレエの作曲を引き受けた。『眠れる森の美女』の作曲に当たってチャイコフスキーが取り組んだ台本は、ペローの童話を基にフセヴォロジスキーが書き下ろしたものとされている。王女の両親(国王と王妃)が娘の100年の眠りを生き長らえて、眠りから覚めた姫の晴れの婚礼を見届けるという部分や、王子のキスで目覚める部分などはグリム童話の「いばら姫」に近いが、フセヴォロシスキーはペローやオーノワ夫人などフランスの童話のいくつかの話も台本に取り入れた。ともあれチャイコフスキーはフセヴォロシスキーに、この台本を読んで大いに感動し、それを最高に生かす良い着想を得たことを嬉々として伝えた。
振付を担当したのは、ロシア帝室バレエの比類ないバレエマスター(振付・演出家)マリウス・プティパであった。プティパは作曲に必要な指示を詳細に書き、その指示に従ってチャイコフスキーはこの新作を、フロロスコエの自宅ですばやく書き上げた。1888年の冬に草稿に着手し、オーケストレーションを開始したのは1889年5月30日であった。
作品の焦点は、明らかに善の力(リラの精に象徴される)と悪の力(カラボスに象徴される)との葛藤に置かれており、それぞれを表すライトモチーフが話の筋を強調する重要な撚り糸として機能しながら、バレエ音楽全体を貫いている。しかしながら第3幕では、その2つのライトモチーフはすっかり息を潜めて、その代わりに様々な宮廷舞曲の1つ1つの性格に力点が置かれる。なぜ2つのライトモチーフが第3幕で息を潜めるのかは昨今の縮小版バレエでは分からないが、原作を見ればその意味がわかる。
アレクサンドル3世は皇族をつれてゲネプロ当日にこれを観覧し、立ち去り際に、たった一言「とてもいい」と言い残した。チャイコフスキーは、もっと好意的な反応を期待していたので、その言葉に苛立ったという。
初演は1890年1月15日新暦)にマリインスキー劇場において行われ、『白鳥の湖』よりも好意的な評価を報道された。だがチャイコフスキーは、この作品が海外の劇場で大ヒットする栄光の瞬間を味わうことはできなかった。
チャイコフスキーは1893年に他界する。それから10年後の1903年までに、『眠れる森の美女』は帝室劇場で1番人気のチェザーレ・プーニ作曲・プティパ振付の『ファラオの娘』に次ぐ地位を得た。サンクトペテルブルクで活躍したイタリア人バレリーナが帰国して行ったミラノスカラ座における上演は評価されず、『眠れる森の美女』が国際的に古典的なレパートリーとして不朽の地位を射止めたのは、ようやく1921年ロンドン公演においてであった。ただし、それはチャイコフスキーとプティパが作った『眠れる森の美女』を基にしながらも異なる部分があり、また、ロシアにおいても革命・ソ連時代を経て異なるものに変わっていった。原作がどういうものであったのかが分かったのは、1999年4月30日、ロシア、サンクトペテルブルクのマリインスキー・バレエが復原版を上演したときのことである〔その一部が2007年マリインスキー劇場ニューイヤーガラのテレビ放映で流され、ネット上でも見ることができる。〕。
なお、原作バレエの上演前にアレクサンドル・ジロティによってピアノ独奏版、1892年にジロティとチャイコフスキーの監修を受けたセルゲイ・ラフマニノフによる連弾版が出版されている。また演奏会用組曲(作品66a)が存在するが、これはジロティが作曲者に提案の上で編纂したものとされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「眠れる森の美女 (チャイコフスキー)」の詳細全文を読む




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